2通目「風雅の便り」
花の色はうつりにけりな美容と美学
生と死は対極にあります。美と醜は対極にあります。
一般的には健康美が普通でしょう。若くて、生命感、溢れているものが美しい。
しかし、芸術の世界を見るとそれだけではありません。
美と死は時に同一のものと語られることも多いのです。
動画でご紹介したように
もうすぐ溺死するであろうオフェーリアを描いた絵。
恋する詩人の首を褒美にくれと言うサロメ。
男女が敵わぬ恋を死によって成就させる文楽曽根崎心中の道行の美しさ。
死という最も恐ろしく、最も遠ざけたいものを美に結びつけるのでしょうか?
色褪せた枯れた花を描いた絵画や写真作品もあり、それらのものは観ると「美しい」と思うものも多くあります。
枯れて色褪せた花をそのまま部屋に飾りたい人はいなくても、枯れた花の芸術作品は美しく感じて高いお金を出して部屋に飾りたくなります。それはなぜなのでしょう?
フィルターを通した美 |
芸術作品は作者の目というフィルターを通して行われた「美」の解釈です。
それと同時に、私たちはそれにかぶせるように自分の「美」の価値観のフィルターを通して作品を見ています。
つまり、実物の枯れた花のうえに、解釈と価値観のフィルターをかけていることで、たとえそれがゴミであっても、部屋に飾りたいアート作品となりえるのです。
芸術作品は創作者と鑑賞者の価値観の創作物ともいえものなのです。
枯れた花は絵になった時点で、創作者と鑑賞者の「美」が織り込まれた別の新たな存在物になるのです。
私たちはさまざまな思い込みで、キレイ、醜いなどを判断します。
その多くは自分が住んでいる文化や経験に影響を受けていて、それらの影響なしにモノそのものを見ることが出来ないのです。
特に美容などは肉体に関することであるがために、非常に臨場感がともないます。
また、社会的な要因もあるので、他人との比較やヒエラルキーの基準としても使われます、欲と見栄も絡みます。非常に人間臭い分野だといえます。
そういう美容の世界も、多様化の時代となり、肉体的な欠損に対する人々の見方や肉体への評価基準が多種多様になってきました。
パラリンピックや障害を持つ方の活躍や太った人のファッション誌へのモデル起用なども多く見受けられるようになってきました。
美容を扱う人の自己完結 |
「美容」を扱う仕事をしている人は多いです。
美容業界だけでなく、健康産業、ファッション、デザイナー、広告関連、エンターテーメントなど。
そういう人達が様々な「美」を売っています。
「美しい」だけでなく、若い、かわいい、カッコイイ、調和、シンプル、華やか、面白い、切ない、わびさびetc.
そう考えると私たちの生活は「美」に囲まれていると言っていいでしょう。
しかし、私たちは「美」についてあまり考えもしません。
「美」を扱う人々が作り出した目新しい美をただ消費していくだけです。
じつは「美」を扱う仕事をしている人も「美の本質は何か?」について考えている人は少ないです。
それはビジネスを考えるとお客様の欲求を満たし、売り上げをあげるためと考えると仕方のないことのように思えます。
しかし、それは本当にお客様や個人のためになっているのでしょうか?
お客様や個人が欲求するから仕事で作る、宣伝する ↓↑ マスコミやSNSに影響されてそういった「美」が欲しくなる |
本当の美とは何か?私たちが求める美の正体とは?ということではなく、その業界の価値観で自己完結していることが多いです。
結局、お互いに作り出したチープな「美」の幻想を消費しつづけているだけです。
そこに多様性や個性や本質などありません。
死で浮かび上がる美の輪郭 |
自分の個性を取り戻し、独自の美を実現するには
大衆化された「美」のループから解放される必要があります。
そのためには「美」の対局である
「醜さ」や「死」に目を向ける必要があります。
「死」を意識したときに「生」を強烈に意識するように、
「美」と正反対の「醜さ」について深く知るようになったとき、はじめて「美」のことが深く分かるようになります。
そうすることで、美とは正反対のような「醜」「死」というものの中にも「美」を感じてしまう人間の複雑なあり方について考えることができるようになります。
そういったテーマをより深く研究しているのが哲学であり、美学です。
フランス語や英語では哲学における美学も美容関係のお仕事も同じエステティックスと表記されます。(英語「aesthetic」仏語「esthétique」)
美を探求することは「人間とは?」「社会とは?」「マスメディアとは?」「情報とは?」「価値とは?」を探求することであり、それは世界の探求へとつながっています。
美容という一見、哲学とは関係のないようなテーマのなかにも、人間の業(ごう)の本質が立ち現れているのです。
私たちは「美」や「生」を求めながら誰も「醜」「死」から逃れることができません。
そう考えると「醜」「死」は一番切実なテーマであるはずなのですが、生きている私たちは臨場感がありませんし、不吉だとして普段考えることはありません。
しかし、
対局にあるものを知ることでその違いが明確になり、「美」や「生」の姿もより明らかになってきます。
人間はそれ単体ではその価値を知ることができないのです。
ほかに比べるものがあるからその特徴や価値を認識できるのです。
例えばあなたが生まれてから一度も他の人間の姿を見たことが無ければ、自分の身長が高いのか低いのかという判断はできません。
「自分が背が高い」という判断は周りの人間と比べる環境があって初めてできることなのです。
これは「美」の判断でも同じで、他に比べるものが無ければ、それがどれほどのものなのか、理解できないのです。
「死」や「醜」はいわば「美」の姿を映し出す鏡のような存在なのです。
この多様性の時代に対応し、今までにない新しい「美」のあり方を見つけたい方には大きなヒントを得ることが出来るでしょう。
次回のお手紙のテーマは「美は心ではなく、言葉で感じる」です。
一般的には「美」は感性や心で感じるものだといわれています。しかし、そこには私たちが意識できない構造があり、私たちの認識を支配しています。
「美」の鑑賞に対する哲学的な見方をご紹介します。一般の芸術学、美術の授業では知ることができない知見です。
それでは、次回をお楽しみに。
■「風雅の便り」の内容
一通目「なぜなぜ、どうしての美」 (一挙に読みたい方は上記のリンクをクリックすればご覧になれます。理解を深めるため順番通りにお読みください。) |
麗知塾説明会&ミニ講座 |
参加される方は出来るだけ「風雅の便り」のメール講座(全5回)をご覧になってからご参加ください。
参加費:3000円(事前振り込み)
場所:
【対面】東京 渋谷or新宿又は【オンライン】Zoom
開催時間:2時間
定員:
【対面】各3名(先着順)、【オンライン】個人面談
※お申し込み後に開催場所、ZoomURLはお申込み後お知らせいたします。
申し込み期限:開催日の2日前まで
麗知塾の内容 |
講座:シーズン1(6回),シーズン2(6回)
- 個別面談(各シーズン6回 対面orオンライン)講座の疑問点、仕事への落とし込み、差別化されたコンテンツ作成、アドバイス、その他。
- 教養基礎講座(解説動画とテキスト資料)
(基礎として知っておくべき哲学、美学、芸術学をメインに提供) - 人文科学・哲学・美学研究における資料
- 課題の提出と個別フィードバック
- 主宰者の哲学・美学・芸術に関する思考コラム
- その他、随時塾生の親睦会等を開催
- シーズン1&シーズン2を受講し、課題提出を終了した方で、希望者には修了書を発行(デジタル)
期間:1年間(シーズン1&2)
料金:説明会でご案内いたします。塾の内容を確認していただいて、必要な方だけに入会していただきたいと思っています。押し売りはいたしません。
【主な講座内容】
■教養基礎講座(シーズン1)
I、理想の美、理想の人間はあるのか?
~理想の自分を追い求める人へ
II、人の痛みや感動を知ることができるのか?
~心理学、感覚の盲点について
III、文系学問は実社会に役立つのか?
~科学的アプローチの死角について
IV、人はなぜ快楽(美)を求めるのか?
~消費社会のビジネスと死との共鳴について
V、弱肉強食の現実社会をどう生きるのか?
~自己成長と妬みの構造について
VI、人生は自分で決めることができるのか?
~人間が生まれながらにもつ自由と罰
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■教養基礎講座:シーズン2
VII、宇宙は神が作ったのか?そうでないならどのように?
~神と芸術の共存関係について
VIII、マイノリティーは社会的弱者か?
~優劣を逆転させる思想
IX、本当に客観視は出来るのか?
~言葉と感性の間にある曖昧さについて
X、私達の世界はどこまでリアルなのか?
~言語の呪縛から逃れられない人間について
XI、基準のない混沌の世界をどう生きるか?
~固定点を必要としない世界観について
XII、哲学や芸術の終焉?
~終わりの始まりを生きる私たちにとっての教養
現代は科学的なアプローチが支持されている時代です。
科学といえば、人間でさえもモノととらえ、数値化することで客観的な立場で研究することを重視しています。
しかし、究極的には人間は「客観視」などできません。そこにあるのは客観視を目指している「主観」です。
数字やデータに意味を与えるのは人間だからです。
「主観とは何か」を極限まで追求することで、逆に人間が可能な究極的な客観とは何かを理解できるようになります。
この塾ではは科学の有用性を認識しながらも、その限界を明確にすることを美学・哲学を通して行い、自然科学と人文学、客観と主観を包括的に見つめる視点を育成していきます。
また、縦割りの日本のアカデミズムのありかたから脱却すべく、大人が持つべき真のリベラルアーツを美学・哲学を基盤とし提供します。
教材は東京官学支援機構から情報提供を頂いた一般では手に入らない貴重な資料と基本的な哲学・美学の解説とします。
この塾では知識を増やすことではなく、自分の人生や仕事に活用していただき、社会や国に貢献していただくことを重視しています。
そのため自分の頭で考える本当の思考力を磨くためアウトプットも重視しています。
最初は難しく思われるかもしれませんが、何事も初めは初心者です。
一人ではなかなか理解できなくても、マンツーマンであなたの思考力の盲点や成長点について見極め、サポートいたします。
哲学・美学の素晴らしいところは、学べば学んだ分だけ視点が高くなり、視野が広がることです。そして、その視座はあなたが手放さない限り戻ることはありません。
まさに、生涯の指針となるクオリティーのものです。
是非、知と感性を磨き上げてより高い次元の「真善美」をめざしていきましょう。
【塾長プロフィール】
石橋ゆかり
麗知塾代表/東京官学支援機構理事
京都市内の京表具師の家に生まれる。同志社大学文学部美学及び芸術学専攻。その後中退し、東京国立能楽(三役)養成所に入所。
6年間能楽太鼓方(金春流)の人間国宝の師匠の下で修業し、修了。
1995年サルサダンス教室を開校。のべ9000人以上にダンス指導(2022年現在)。
2019年アートスクール「美学校」に入校。2年間在籍。
2022年 東京官学支援機構 理事、東京リベラルアーツクラブ(TLC)公認リベラルアーツプロモーター
美学、哲学、芸術学、アートの学びを長年継続。
2022年よりアカデミズムに根差した”美と知”の普及活動を本格始動。
麗知塾を開始
なぜ、私がこのような活動をしているのか
私は小さい頃から、「『美しい』って何だろう?」と考えてきました。生まれたのが京都で両親に連れられて、よく美術館や神社仏閣に行っていたせいかもしれません。
そんな私が今回このような活動を始めた理由は誰かが美やアートの本当の凄みをきちんと伝えなければ、と思ったからです。
実は私は数年前、「アートは世界の本質を伝えてくれますよ」ということを広めようとしていました。
しかし、表現にかかわる仕事をしてきて、長年一流の先生の授業を受けてきたとはいえ大学教授でもない、大学院で正式に学んだこともない私がこんなことを教えていいのだろうか?という思いがありました。
私もビジネスマンですから、他のコンテンツならそんなことは思わなかっただろうと思います。
しかし、「美」や「アート」は私にとって特別な存在なのです。
私は長年学び、経験していく中で芸術、文化が本当は儚いものであり、それが古代から現代まで奇跡的に途切れずに現代まで続き、私達が受け取ることができていることに気づかされました。
先人たちの「美」に対する真摯な態度にただ圧倒され、自分の小ささを思い知らされてきました。
リスペクトする気持ちがあまりに強く、
私などが「美」や「アート」にかかわるなど、とんでもない事柄だという気持ちがあります。
そのため、「美」や「アート」の本質を広めるには、私などよりも適任者がいるのではないかと思っていました。
そうこうしているうちに、「デザイン思考」「アート思考」「対話的鑑賞法」など、アートを現実に落とし込むコンテンツを販売する人や企業も現れ、それに大学の先生方も協力なさっているということを知り、「それなら、私が活動をしなくても、そういう人たちがきちんと伝えたほうがいい。
そのほうが習う人にとってもいいし。」と思いましたので、自分の考えを広める意義もないと思い、やめてしまいました。
しかし、残念なことに様々なアートコンテンツが、結局、「美」や「アート」の本質を伝えることよりも、「楽しく!誰でも簡単に!みんなに親しんでもらえるように!こんなに役立ちます!」というアピール満載で紹介されます。
「美」や「アート」商品化され、薄められ、拡散していきました。
私は本当に、心の底から失望しました。
「なんでこんなに素晴らしいものをそんな売り方で、そんなに中身を薄めて人に紹介できるんだ?」私にはこれは「美」や「アート」に対する裏切りのように思えました。
と同時に、真摯に研究に没頭されている先生方やアーティストに対する裏切りのようにも思えました。
でも多分、そういったアート関連商品を売っている方々に悪意はないのです。その価値をより多くの人たちに伝えたい!という熱意があって、このような形になっているのだと思います。
「美」や「アート」の研究者、専門家といえどもビジネスでは素人です。マーケティングのプロだ!という人から「こうしないと世の中に広まりませんよ。」と言われると、今まで効果のあった、手あかのついた「楽しい、簡単、すぐに」というマーケティングの打ち出し方で商品を売るしかないのだと思います。
それが、「美」や「アート」の本質とは真逆のことでも、一般に広めるには仕方がないと。
でも、そのようなことを放っておくと大人の事情や思惑でゆがめられた「美」や「アート」が、本当なのだと一般の人は誤解してしまいます。
「その程度のモノなのね。」と。
ビジネスはきれいごとだけではないことも、十分承知しています。しかし、この問題は個人的に好き勝手に消費して、汚して、あとは知らないという物でもないと思います。
こう思ってしまったら私はどうしたらいいか?
常々「文句ばっかり言って、何にもしないような生き方はしたくない。」と考え、もうこれは自分でやるしかないと決断しました。
やるからには、出来る限り「美」や「アート」の本質をゆがめたり、自分の都合のいいように作り変えたりしない、そう誓いました。
正直言って、分かってくれる人は少ないでしょう。難しそうだからと敬遠されることも想像できます。
でも、一人でも「美」や「アート」の本質について知りたいという方に、私の今までの知識や経験が役立つのなら、やる意味があると考えています。
私ごときが「美」や「アート」という人類の遺産に対してできることなど、塵(チリ)のようなものですが、知りたいという方がいる限り、全力でお伝えしていこうと思い、こうしてあなたにお話ししているというわけです。
幸い、私は「日本の人文知を守る」という理念のもと寄付活動・研究者支援・普及活動を行う「東京官学支援機構」の理事に就任することになりました。
私たちの団体は大学に代表されるアカデミズムに貢献しますが、それに服従するわけではありません。
究極の目的として、国のために貢献することを重視していますので、アカデミズムに苦言やアドバイスができる立場を確保しています。
そのためにジャーナリズムの役割をにない、出版やデータベース構築を行い、アカデミズムと同様かそれ以上の最上位の情報にアクセスできる立場を確立していきます。
これにより、より正確で、高度な「美と知」に関する情報が手に入るようになりました。
おかげで人に伝える際も、自分の主観で「美」をねじまげる可能性もほぼ無くなります。
東京大学、東京芸術大学からも情報提供をいただいている団体ですので、日本における教育や文化への施策の情報も入ってきますので、日本独自の問題点も高い視点から皆様にお伝えすることができます。
このような日本の人文科学を支援する団体に所属していることで、巡り巡って私の故郷の京都や日本文化を支えることになるというのは、
私の大きなやりがいとなっています。