コーチングにはクライアントを様々なタイプに分けてコーチするというやり方があります。コーチングに限らず、性格判断や適性検査など心理学を応用した判断テストが世の中にはたくさんあります。
そのような多くの判断テストでは、「これはあくまでも参考にすべきデータです」と但し書きがあります。信憑性がもともと薄いものをどうして人は採用するのでしょうか?
そのような適正テストにこと頼ること自体が、物を見る目がないことを露呈していると私は考えます。
目次
タイプに分けるのはコーチの都合
心理学では昔から人を「性格」という切り分け方で区別しようとしてきました。
ですが、そもそも「性格」という物自体が、心理学が人を区別するために、そういうものがあると仮定して創作された概念なのです。
分かりやすく言うと、動物を馬、猫、犬、羊などと外見や形状で区別するのと同じように、人間の心も区別分類できるのではないか?
と考えて、人間を観察してみると、行動や表現でいくつかにカテゴリー分けが出来る、それを人間の「性格」として、心の分類に使おう!ということです。
しかし、問題は動物を分類するのと、心を分類するのとでは決定的に違うことがあります。
動物は骨の形やひずめの数など、見た目で明らかに区別できます。一方で心はどうでしょう?
心は客観的に見ることも、観察することもできません。見えるのはその人の発言、行動だけであり、それは心そのものではありません。それが心の在り方と表現されたものが完全に一致しているとは誰も言えないのです。
心理学が科学というには根拠が薄いと言われる所以です
そういう曖昧さをどこかで自覚しているから、判断テストは「ご参考までに」という但し書きをつけることになるのです。
人は何故、タイプに分けることを好むのか?
では、どうしてそんなあいまいな物を人はいつまでも使おうとするのか?
なぜこういった適正検査があいまいなものなのか?をコーチングの専門家も説明しようとはしませんが、本当はそこが大切なのに、お茶をにごして済ませようとします。
結局、心理学や科学の概念の枠組みから出て思考することができないから、その世界観の矛盾に気づけないのです。
その世界の矛盾に気づけるのは、その世界を外側から見れる人だけです。
そこで、私なりにコーチングや心理学に限らず、人は物事をタイプに分けたり、分類したりすることを好むのか?について次に書きます。
まず、人間の知識の構造自体が、他との差異によって区別することで成り立っているからです。
人間は世界を自分なりに区別することで把握し、それを言葉にして知識としています。
区別することが出来なかったら世の中は、一切がぐちゃぐちゃとしたはっきりしないもの、カオスです。(カオスを妙なスピリチュアル的に解釈はなされないようにお願いします)
今、私はカフェにいて、目の前にテーブル、椅子、コーヒー、他のお客様、音楽などがありますが、もし、それらを区別できなかったらどうなるでしょう?私は今の状況を人に説明することなどできないでしょう。
眼の見えない方がこのカフエにいたらどうでしょう?音楽は区別できるでしょうが、テーブルや椅子は自分が触れないかぎり存在の区別は出来ないです。それらは、なんだかわからない「その他のもの」として混ざり合い、区別して認識できません。
「テーブル」「椅子」「コーヒー」「他のお客様」「音楽」という言葉は周りのものと区別することができるから名前を付けることができるのです。もし、人間に区別する能力がなかったら今ある言語も存在しませんし、知識や学問も存在しないのです。
言葉の話にまで広げると、一層複雑になってしまいますので、ここでは深く立ちいることは止めておきます。
区別が知識を作り出す
コーチングであろうと、心理学であろうと、その他のすべての知識が根本的に「区別」ということをすることで成り立っています。
そういった隠れた構造を私たちは日本の学校つまり、西洋の教育や学問をベースとしたシステムで小さき頃からならされてきているため、その「区別」ということになんの疑問ももつことはありません。
「これらは○○と○○に区別します。」ともっともらしく、しかも権威があるように言われればすぐに信じてしまうのです。
一般的にこのような区別を信じてしまうには、それを信じてしまう側の人間の思考が関係します。
それは、人間はよくわからないもの、はっきりしないものことを不安がる本能があるからです。
これは自分にとって危険か?危険でないか?判断できなくては生死にかかわります。
危険か?危険でないか?はそれらを区別できなくては、判断のしようがありません。そこで、区別し、これは○○である!と一度判断をしておくことでスピーディーに物事を分類できます。
日本人は几帳面だ。
男性は女性より力が強い。
にこにこしてる人は優しい人だ。
などと、区別し、レッテルをはることでいちいち不安になったり、すごく考えたりしなくても済むようにしているのです。
これがいかに、実際の現実とはかけ離れることも多いことであるかはお分かりでしょう。
しかし、一旦はこういう区別をしておきたいというのは、世の中をきちんと理解しておきたい、自分が判断できるようにしておきたいという本能なのです。かりそめでもいい、何らかの固定点を見出さないと不安なのです。
その固定点を起点に、人はまた物事を区別し、世の中を理解する方策として使うのです。
「区別」より「統合的抽出」が重要
学問の分野にもその傾向はあります。学問が細分化されて、それぞれの分野を深堀りするけれど、細分化されすぎて全体的な視野がせまくなり、行き詰っています。
ですから、現代では他分野との連携、交流が重要視されています。
そのように細分化の道をたどるのは、人間が世の中を「区別」することで把握しているので、仕方がないことです。
一方で、物の本質とは「区別」とは全く逆の方向にあるものです。それは「統合的抽出」です。
ただ、複数の物を混ぜ合わせるのではなく、それらの共通の本質を抽出してまとめるのです。
「区別」をすればするほど、物事は複雑に、多種になります。
一方「統合的抽出」をすればするほど、物事はシンプルになり、数は減ります。
人は詳しく物事を知ろうとするとき、細かい差異に注目して、それを探求しようとしがちです。オタク的、研究者的な立場です。
しかし、細かく区別し、分類するだけではそのものの本質にはたどり着けません。そうではなくて、共通項をみつけていく探求が必要なのです。
「統合的抽出」をすれば、結果的に抽象度は高まります。そしてそれが、物の本質として立ち現れてくるのです。
クライアントの満足感を満たすと失うもの
もう一つ気になるのは、このようにタイプ別に分けてコーチングしよう!という考え方が、クライアントのためではなくてコーチのために作られているということです。
相手の考え方を把握するのは難しいから、タイプ別にわけてあたりを付けてからコーチングしましょう!というわけです。その分け方がクライアントの話し方や雰囲気や、好みで非常に大まかに分けています。区別するにしてもあまりにもおおざっぱです。
クライアントの側からすると、そんなおおざっぱな分け方で最初に区別されて、その語修正がかかるにしてもそれでコーチングされることに納得できるのでしょうか?
中には、コーチの言う事をすべて鵜呑みにしてしまうクライアントがいて、どんな風にタイプでわけてコーチングしても納得してしまう人もいるでしょう。
しかし、そういう人にこそ、こんなカテゴリー分けはなんの意味もないんですよ!と世の中の仕組みや私たちの思考のワナについて、きちんと伝えるべきだと思うのです。
そういった、その人が見えていない視点を教え、伝えるのが本来のコーチングなどの仕事をする人の役割だと私は思うのです。
クライアントのご機嫌を取ることが目的になってはいけません。
「参考程度」の物をつかいながら、いかにも正当な理由でタイプに分けたり、テストしているかのように見せかけるのはいかがなものなのでしょうか?
それとも、クライアントが満足するなら、適当なことを言って置けばいのでしょうか?
「統合的抽出」をすることはコーチ自身の思考力や抽象化能力が必要です。お決まりのテストや診断でタイプで分けるほうがはるかに簡単です。
しかし、人を導く、人生やビジネスをサポートする人が、そういう安易な方法を使い、思考力を高めることに力を注がないのはおかしいと私は考えます。
区別思考ではなく、重層思考が大事
タイプで分けて判断するというやり方はコーチングに限らず、間違ったレッテル貼りや差別につながることを、きちんと意識しておかなくてはいけません。
私がメタ・アーチングで人の相談を受けるとき、タイプ分けをすると逆に、アドバイスしずらくなります。
それは、先ほど書いたように、「統合的抽出」が出来なくなるのと、思考がフラットになってしまうからです。
フラットというのは抽象思考のレベルが、同じレベルという意味です。いくら区別をしてもそれらが同じ抽象思考レベルのことなら物事の本質には近づけません。
メタ・アーチングでは思考の重層化を重視しています。
同じ抽象思考のレベルで横に展開していくのではなく、上下へとレベルを変えるのです。
抽象レベルが一段上がれば、下のレベルの区別など全く意味がない、どうでもいいものになるからです。
「統合的抽出」の訓練をすることは簡単ではありませんが、クライアントを導くためにお手軽な手法に逃げることは私はこれからもするつもりはありません。
「統合的抽出」については、また別の記事で書いていきたいと思います。