写真家 荒木 経惟(アラーキー)さんは1940年生れ。今も制作意欲満々で毎年個展を数回なさっています。
アラーキーといえば、「エロス」をご自身の作品のテーマの一つといえます。
※荒木 経惟さんの作品を見たい方はこちらのHPをどうぞ
荒木 経惟さんに限らず、アートとエロスは切っても切り離せないテーマです。
ただ、アートにおける「エロス」と一般的に使われている「エロス」という言葉にはニュアンスの違いがあります。
「エロ」から「愛」まで
一般的には、エロスというより、「エロ」と略されて、色んな場面に使われています。
どちらかと言うと、性的、低俗、いやらしい、わいせつという意味合いで使われます。
(エロ本、エロい、など略されて使われると益々このような意味合いが強くなるようなるのは、興味深いです)
「エロス」のもう一つの意味合いは、愛、高尚、生命力といった物があります。
エロスの語源はギリシャ神話の愛の神「エロ―ス」です。ギリシャ時代にはエロ―スは成人男性の姿として描かれますが、時代が経つうちに、ローマ神話ではエロ―スのことをアモール(Amor)またはクピードー(Cupido)と言うようになります。
近世になると、皆さんにおなじみのキューピットの姿、裸の幼子に羽根が生えた姿として描かれるようになります。キューピットはクピードー(Cupido)英語読みしたものです。
西洋のアートの始まりのころ、ギリシャ時代には神話に出てくる神々の姿を作品として作り出すことが重要でした。そのようなアートの流れは近世までありました。
17世紀のフランス王立アカデミーでは絵画にはランクが存在しました。、1、歴史画、2、肖像画、3、静物画の順番で、ギリシャ神話を題材にしたのもは歴史画となり、非常に高尚なものだとされました。
のちに、18世紀ごろからは徐々にそのランク分けも緩やかになってきましたが、そのように何を描くかによって、芸術の価値が決められていたというのが、今の私たちの感覚とは違います。
とはいえ、現代アートにおいて、アーティストが漫画やアニメを題材にして作品を作ったり、廃材をつかって一見みすぼらしい作品を作ると、一般的には「あんなのは本物のアートじゃない!」という批判がくるそうなので、題材によってアートをランクづけしようとする価値観は私たちにもまだまだ、受け継がれているのです。
エロスの作法
さて、「エロス」の話に戻りますと、これはギリシャ神話がもとになっていますので、神々が人間と同じような姿で、素っ裸で、男女が抱き合っていてもそれは高尚な歴史画なわけです。
それを、ポルノ映画を見るように鑑賞するというのは、ルール違反という暗黙のルールが存在するんです。
しかし、このような暗黙のルールはそのルールを知らない人たちからすれば、全く関係のないことなわけです。
明治時代、西洋の最先端の芸術を日本に伝えようとした黒田清輝が『智・感・情』という女性3人の裸体の絵を発表した時は、ずいぶん世間から非難されました。
それは、日本ではまだまだ西洋の芸術の暗黙のルールが知られていなかったし、従来の日本の価値観とは違いすぎて、
女性の裸の絵を公共の場でさらすことは受け入れがたかったのでしょう。
日本と西洋の裸に対する考え方やエロスの考え方の違いが、同じ作品を見ても、違った解釈で受け取られることがあるのです。
日本人が荒木さんの写真を見て感じるエロスと西洋の人が感じるエロスは、違うように思います。だから、海外のアートの専門家が荒木さんの作品を見て、どう解釈していいのか戸惑ったと言うのでしょう。
表現の奥に感じるエロス
荒木 経惟さんの写真の面白さは、裸などを見たときに一般的に感じられる性的で、嫌らしくて、エロい価値観、特に日本人が感じるエロさを全面に出しているところです。
ファッション雑誌とは違う日常にある性、欲望をそそるぼんやりとした表情、たるんだ肉体、縄で縛られた着物姿、腐りかけの花。
その表現に私はいつも2重の相反するイメージを持ちます。
聖と俗、生と死、美と醜。
荒木 経惟さんは俗、死、醜という、人が目を背ける事柄を被写体に選び、鑑賞者にそれを見せながら、
聖、生、美という人が到達しがたい物を見る人に感じさせることができます。
まあ、荒木さんはそれを「情」とか「二人の間にあるもの」という言い方をしてます。西洋の「愛」という言葉とはフィットしないのでしょうね。
荒木 経惟さんはよく、「見る人が好きなように感じて、見ればいい」と言っています。
それは、「自由に好き勝手に見ていいんですよ。」ということではなく、
「分かる奴にはわかるだろ。説明されなきゃわからない奴には、説明したところで分かりはしない」ということだろうと私は思うのです。
高尚なエロスを感じる感性
アートを深く知るということは、美術史や美術用語を知ることではありません。
それよりも、表面上の表現だけではなく、その裏に流れるその作品の本質を見ようとする目を養うことです。
これは、アート鑑賞だけにとどまらず、人の言動、世論、情報を見るときの自分の「物を見る目」に必ずつながります。
「物を見る目」のことを、情報をたくさん知っていたり、記憶力があることだと勘違いしていると、私がいう「物を見る目」とは違ってきます。
世の中のほとんどのことは、自分で判断し、自分で解釈し、自分で決断しなくてはいけません。
そこに、説明書やマニュアルなどないのです。あったとしても、それが本当に自分に必要かを判断するのは自分自身です。
しかし、人はどこかに人生の説明書やマニュアルがあると思ってさまよっているわけです。
そんな無駄なことをするなら、自分の「物を見る目」をコツコツ鍛えていくことの方が重要です。
人生の説明書やマニュアルは自分で作っていけばいいんです。それに、正解、不正解はないのですから。
でも、どういうレベルの物を作るかはあなたの物を見る目にかかってきます。
自分にどれくらい、物を見る目があるかを知りたければアートを観て、語りましょう。
その語られた言葉があなたの今のレベルを表しています。