アートで変人を作り出す影武者は誰か?

アーティストには変わった人が多いというイメージが一般的にはあります。その理由はいくつかありますが、一般的に考えられている「変わった人=変人」の価値とは別のところにその価値は存在するように私は思います。

アートと変人の関係性からビジネスの共通点を見ていきたいと思います。

 

アーティストに変人が多いと思われてる理由

アートの価値観のせい

まず、アーティストには変人が多いと思われている理由を考えていきましょう。

1つはアートという物自体が、今までの常識を覆すことに価値を置いているからです。

 

アートの世界では、絵が上手いとか、綺麗だとかという技術的な事柄は評価として決定的な要因ではありません。

まるで、子供の殴り書きのような絵や既製品を展示しただけで作者がほとんど手を加えないものもアートの歴史に名を残すものもたくさんあります。

それよりも、いままでのアートの文脈ではアートとは考えられてこなかった事柄をアートとして提示したり、世の中の人が気づいていない世界の見方を提示することの方が価値があるとみられているからです。

 

このような見方は近代以降のもので、それ以前の芸術にはヨーロッパの伝統的な芸術の概念が唯一のものでした。

 

近代以前は「何を作るか、どう作るか」が重要視されてきましたが、近代以降は「それを作ることで何を提示するか」が重要になってきているといえます。

 

いままでの価値観や物の見方をしていては、新しい物の見方を提示することは出来ません。

 

そういうこたもあり、アーティストは人とは違う見方をしようと意識しますし、逆に現実社会の規則や常識から外れていて、そこではなかなか評価されない人がアートの世界では高い評価を受けることがあります。

 

障害を持った人が、その障害ゆえにサヴァン症候群のように、一般の人より絵画や音楽的な能力が超人的に発達することがあります。

その能力をいかして、アーティストとして活躍している人もいます。

障害といわれる段階でなくても、対人関係がうまく作れなかったりや社会的な常識とは違う行動をしてしまう人は一般社会では区別されたり、排除されがちですが、アートの世界ではそれが評価されることがあります。

 

※私は変人、障害を持った人という言葉を侮蔑の意味で使ってはいません。一般的に常識と思われる人とは違う人達という区別の意味で使用しています。何が常識で何が変か?という根本的なことことを考えなくてはいけないことも十分理解していますが、ここでは長くなるので書きません。

私たちの願望のせい

人は世の中の常識や規則に従わなければ、不利益をこうむることが多いです。

本当は自分の欲望を100%満足させたいのが人間ですが、現実として、そういうことは出来ません。

自分が欲しいからといって、人から力ずくで物を横取りすると、強盗窃盗などの罪を問われ、罰をあたえられます。

そこまでいかなくても、特に日本では、人と違う意見や行動をするだけで、「和を乱す、面倒な人」といって煙たがられることも多いでしょう。

 

自分の欲望を満たしたいけれど、規則や常識を破るとそれ以上の不利益があるので、我慢する。

自分も我慢するけど他人も我慢してくれるので、人から物や生命を奪われる危険性もすくなくなるだろうとメリットも感じるので、それを受け入れているのです。

 

しかし、欲望が無くなるわけではありませんので、心のどこかでは、規則や常識を破って自分の好き勝手にやりたい!と本心では思っているのです。

ですから、常識や規則を否定し、それに縛られない人を見ると、「悪い人、危険な人」という風に判断しながらも、心惹かれてしまうのです。

それは、自分がやりたくても出来ないことを実現しているからです。
それを見ることで、人は自分の願望と変人を同化させて、世間に一矢報いたような気分になり一瞬気が晴れるのです。

だから、多くの人は自分と直接かかわりがない限り、変人が好きなんです。

 

アーティストが変人であっても、それは他人の話で、自分の生活には何にも関わり合いから、面白い!好きだ!といっていられるのです。これが自分の家族やパートナーだったら、日常がかき乱されて、迷惑この上ないと思うに違いありません。

 

私たちが変人の出現を望んでいることをアーティストは知っています。

そこで、戦略として「変人」を演出するアーティスともいます。

ダリやウォーホル、日本だと藤田嗣治、現代作家会田誠などは意識して変人の自己演出をしていると私は思います。

変人の種類

上記に書いたようなことのせいで、アーティストは変人が多いと思われているのでしょう。

また、逆に変人だけど、アーティストなら許されるよね、という世間の認識もあります。

今までにない新しいものを生み出すには、常識人ではダメだとみんな分かっているのです。

 

では、アーティストはみんな変人、もしくは変人ぽいのか?

というと、そうではないと私は考えています。

 

私は変人のアーティストと常識を極めたアーティストがいると考えています。

 

例えば、自分の考えを世の中に広めるには継続が大切であるという考え方は、常識的だといえます。

しかし、それを365日10年、20年と続けることはなかなか普通の人は出来ません。しかも、それがお金にもならず、人から評価されるかどうかも分からずにそれをやり続けることが出来る人はなかなかいません。

日づけの数字を書いただけのキャンパスをそれを描いた場所の新聞でくるんで長年郵送するアートや長年電報や手紙を同じ文面でおくることをアートにするというものもあります。

作品でなくても、他人からの要請がなくても毎日作品を制作し続けるその行為も継続の行為ですし、それを人生をかけて何十年も続けることは、「継続は力」という常識を知っていたとしてもなかなか出来ることではありません。

 

しかし、時代に名を残すアーティストはそれをします。

常識的なことをとことんやる、または継続するのです。

それは徹底的に常識人になるとも言えます。そうすると、変人の要素がにじみ出てくるんですね。

常識はぬるいだけのもの

そう考えると、常識ってなんなのか?と考えさせられます。

常識とは全く違う考え方は変人になる、もう一方で常識を徹底すると変人になる。

 

つまり、常識って言いうのは、そこそこ普通の人があんまり頭を使わずに、適当にやること、やれることだとも言えます。

そう考えると、常識ってたいした価値はなく思えます。

 

「私は常識のある人間だ!」というのは、言い換えれば、あんまり頭を使わず、適当に力抜いて生きてます!ってことなので、それほど偉そうに声高に言う物ではないなと。

ですから、そういったものを振りかざしたり、人に押し付けるのはどうかと私は考えます。

 

ある意味、楽な生き方とも言えますので、一般的に常識的な生き方で生きようとするのも当然なことだと思います。

このように書くと、常識人は価値がない!と思われがちですが、実は私はある常識人が一番強いと考えています。

 

アートを作るのは変人ではなく○○常識人

変人的な人が今までにない作品を作ったとしても、それでアート作品となることはありません。

 

それがアート作品であると認識されるためには、評論家やギャラリストやキュレーター(学芸員)、ある程度名の知れたアーティストによって、それがアート作品である理由が承認されないといけません。

承認といっても、投票したりすることはないのですが、これは新しいアートと言えるという認識の共有が出来るかどうかというもんだいです。

 

例えばアウトサイダーアート(専門的なアートの訓練を受けていない人たちが作るアート作品。日本では障害者が作るアートと認識されていることが多いですが、障害者には限らないのが世界的な認識です)は、それをアートだと評価する専門家がいなくては、それはアートとはなり得ませんでした。

 

大昔から、アーティストでなくても絵や造形物を作る人は大勢いました。しかし、それは芸術・アートとは言われませんでした。

 

しかし、それらをアートの専門家が「今まで気が付かなかったけれどこれは新しいアートだ!」とし、その理由が明確にでき、アートの文脈にのせることが出来ればそれはアートとなるのです。

つまり、変人の価値を見出し、それを認定するのは、常識人なわけです。

ただし、ただの常識人ではいけません。

 

常識と変人の利点と難点を両方を理解し、アートの文脈を理解し、アート以外の世界の文脈を理解し、それを言葉で論理的に説明し、人に納得感を持たせることが出来るメタ常識人です。

私はこのメタ常識人が最強だと考えます。

 

よく、人とは違う非常識な、奇想天外なことを言う人を「普通とは違う!天才的だ!すごい!」と評価する人が多いですが、ただ奇想天外なことを言う人=世の中が見えてる視点の高い人、というわけではないのです。

まあ、奇想天外なことや変人が好きな常識人には分かりやすいので、マスコミなどでは取り上げられやすいのでしょうけど。

 

本当に視点の高い人は変人、常識、アート、世間といったカテゴリーの外から全体を冷静に見渡せる人です。

 

変人と一体化するのではなく、
常識に一体化するのではなく、
アートと一体化するのでもない。

 

それらのことを理解している、つまり一部を同化させることも出来ているが、そこに取り込まれているのではない状態。

私はそういったメタ常識人が世の中を動かしているのだと考えています。

 

これは、アートの限らず、ビジネスやコーチングなどでも同じです。

変人を変人たらしめているのは、常識人であり、
変人の価値を上げているのも、常識人なのです。

常識があるから変人が存在するわけです。

 

非常識な考え方や既存のシステムを否定する考え方を手放しに評価するだけでは、世の中は動きません。

かといって、常識的なことばかりしていてもダメなのはご承知のとうりです。

 

常識人でありながら、変人性をもつことが大切です。破壊と構築の両方が必要なのです。

 

変人は常識人の隠れ蓑

ある意味、変人はメタ常識人の隠れ蓑なのだと私は考えます。

変人の価値を上げたり、下げたりすることにより、その時々に応じて総体的な自分の価値を上げることをすることがメタ常識人にはできます。

 

品のない言い方ですが
「バカも刃物も使い方次第」という言葉が日本にはあります。

使うのはメタ常識人です。ただの常識人では変人は使いこなせません。

 

この世の中で変人として生き延びることは非常に困難です。

そういう意味で私は偉大なアーティストのことを尊敬していますが、きっと変人的アーティストはメタ常識人の手の上で転がされていることの不自由さを身に染みて認識していたのだろう思うのです。

きっと、それを自覚しながら変人の自分を世の中に売っていこうとしていたことでしょう。

 

ただ常識を否定することや、奇想天外なことを目指すのでは、まだ視点が高いとはいえないということです。

それに甘んじなくてはいけない状況でも、その上の視点をいつも意識することが重要だと私は考えます。

 

私はまだまだメタ常識人には行きつけませんが、方向性としてはそちらを目指していきたいと考えていますし、そのことを人に伝えていきたいと思っています。



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