今でこそ私も現代アートやコンテンポラリーダンスを見ますが、学生の頃は現代アートもそんなに一般的ではなく、どちらかというと日本美術のほうが好きだった私はそういった最先端のアートは好きではありませんでした。
理由はよくわからない、と思っていたからです。
好き嫌いというより、解らないから興味が持てなかったと言えます。
マザーテレサは「愛の反対は無関心だ。」と言ったそうですが、よくわからないというのも無関心の一種ではないでしょうか。
今の若い人たちは映画や本を読む前に、それらを見たり読んだりしたときに感動できるかどうかを確認してからしか購入しない傾向があるというデータがあります。
自分がなにか行動をしてそれに見合うものが手に入るという保証がないと何もしないということです。
しかし、本当に心揺さぶられるアートに出会うためにはそういう保証をあてにしていては出会えません。
この後に記載するコンテンポラリーダンスにしても、私は非常に感動しましたが、あなたが感動するかどうかの保障にはなりません。
ただ、一つ言えるのは本当の感動というのは自分の予想を超えたものです。つまり、事前に考えていた感動とは全く違う種類の質のものが自分を襲うというものです。
自分が咀嚼できそうなものばかり選んでいると、解りやすい、簡単なものしか受け取れないようになります。
やわらかいものばかり食べているとアゴが退化していくように、思考、感性も退化していきます。
その感動はポジティブなことだけでなく、嫌悪であったり、気まずさとして感じられるものかもしれません。しかし、そういった嫌悪や気まずさのなかに自分が気が付いていない人間の本質があるのではないかと思います。
自分ではコントロールできないものに突然出会ってしまう。
そういった物がアートの魅力であり、存在価値なのではないでしょうか。
よくわからない得体のしれないものとの出会いを求める気持ちが「愛」なのかもしれません。
——–【アート鑑賞】————
◆「オレは何を見たんだろう?」
先日、ディミトリス・パパイオアヌーが演出する『TRANSVERSE ORIENTATION』をさいたま芸術劇場まで見に行きました。
一応、コンテンポラリーダンスの分類になってますが、ほぼ音楽もかからず、効果音だし、筋書きがあるような演劇でもないし。
舞台は非常にシンプルです。
最初は大きな壁とそこについたドアと蛍光灯だけです。
その舞台装置は最後まで変わりませんが、光の演出、小道具によって全く違う空間が次々と作られ、2時間の間、一度も幕が下りす休憩なしでしたが、全く飽きませんでした。
非常に絵画的なバランスの取れた構図かと思えば、それを破壊する人間の肉体の構造の意外性。
ダンスといいながら人間の肉体を解体していきます。凄い。
均衡と破壊。美と醜。見ることと見せられること。
観客の思考と感覚を最後まで揺さぶり続けます。
劇場を出たとき観客の一人の男の人が
「オレは何を見たんだろう?」
と独り言を言ってました。
この感想がすべてなような気がします。
ダンスを見た。パパイオアヌーの振付を見た。凄い演出を見た。肉体表現を見た。
そういって言葉にしても決してすくいきれない、今の私たちのダンス観、演劇観、パフォーマンス観では語り切れない「圏外」のものでした。
言葉に出来ないなんて陳腐な表現で嫌いですが、本当に当てはまる言葉が現代に存在しないんですよね。
このレベルのダンスを今の日本で、同時代を生きるものとして見れたことは心震える僥倖です。
8月に京都でも公演があります。興味のある方は是非。
(ダンサーが全裸になりますので、初めての方はびっくりしないでくださいね。西洋の芸術の文脈ではヌードは神聖な意味合いもあります。ギリシャ彫刻が全裸なのもそういう文脈ですので。)
『
https://rohmtheatrekyoto.jp/lp/transverse_saitama_kyoto/
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