ビジネスで勝つためにアートや哲学を学べ!

今までの世の中は専門知識や技術が重要視されてきました。

しかし、今日のように世の中の人々が自分の価値観で動き、それが世の中の流れになる時代になってきたら、アート、哲学などの教養(Liberal Arts)が重要になります。

では、なぜ教養(Liberal Arts)が大切なのか、私の考えを述べていきます。

教養を役立たずとみる日本

日本の大学には一般教養課程があり、そこで広く浅く世の中の基本的な学問を学んで、将来の専門知識に活かしましょうというシステムがあります。どちらかというと専門課程に移る前の準備期間で、専門分野が決まれば、それに集中するようになります。

 

また、一般的に教養というと、文化的な知識が豊富な趣味人という扱いになりがちです。

文系と理系という、あまり意味のない区別の仕方が日本にはあるせいかも知れません。

 

明治のころの名残の西洋の科学技術をとりいれて、国を豊かに、力をつけるという、大きな流れがまだ伝統的に日本にあるせいかもしれません。

国が認める、推奨するもの=価値のあるもの、という刷り込みもここに見られます。

一方で、教養はいわゆる文化人の間では非常に価値はありますが、一般企業ではあまり価値は見出されていません。

マーケティングや商品開発に直接かかわる、コピーライテイングやデザインなどは即戦力として重宝されますが、純文学を今までたくさん読んでいたとか、アート作品が作れる人は、仕事にはあまり役に立たないと思われてきた節があります。

 

しかし、今もそうですが、そういう考え方では行き詰まっていくでしょう。

(明治以前は日本にも文化的、学問的教養が社会的立場や権力者の必須となっていた時代もあるんですけど、今は薄れています。)

 

専門知識が時代に取り残される

今の世の中は「大きな物語は終焉した」時代です。「大きな物語の終焉」というのは哲学者ジャン=フランソワ・リオタール(1924-1998)が提唱したものです。

近代までは世の中の人達が共通に思い描く目標や理念に向かってみんなが活動してきたけれど、これからは個人や小さな集団がそれぞれに思い描く価値観にそって行動するという考え方で、

現代の有り様を見れば、それが進んできているのは明らかです。

大きな物語の時代には、国や国際社会が決めた目標に向かって世の中が動いていきますから、それに沿ってみんなが活動すれば、よかったわけです。

そうすれば、ビジネス的には利益が得られ、社会的地位も与えられました。

 

近代までの日本でしたら、それが科学技術であり、工業だったわけです。
そういう時代であれば、専門知識や技術が重宝されます。

 

専門外のことなど知らなくても、世の中の人が流れてくるので、専門知識や技術があればよかったのです。

しかし、現代は専門知識や技術だけではダメです。

 

それは、大きな物語が消えて、数年後何が必要とされている技術なのか、誰にもよくは分らないからです。

その時重要とされてきた技術や知識は時の流れとともに、必要とされなくなる割合が非常に高まりました。そのスパンも早まっているためです。

みんなが何を学べが自分に良いのか?どこの分野で働けばいいのか?右往左往しています。

今の世の中、銀行や商社に就職すれば万々歳、大企業と取引していれば一生安泰などと考えている人は少ないでしょう。

 

 

小さな物語を作り出した私たちが、それに苦しむ

一体、誰が「大きな物語」を捨て去ったのでしょう?

それは、今の時代に右往左往している私たち一人一人です。人間一人一人の総体が時代なのです。

皮肉なことに、「大きな物語」を捨て、個人の価値観を大切にしていくことを選択したことで、未来が予想しづらいのです。

 

こういう時に私たちはどうすればいいのでしょう?

 

私は冷静に本来のありのままの世界の在り方を受け入れることだと考えています。

「大きな物語」の時代のとき、人々は共通の目標や理念や未来を目指していました。
しかし、それは幻想でした。

「我々は共通の理念に向かっていく」ということなど、本当はあり得ません。
実際に、2度の世界大戦も起こり、その後も各地で紛争が起こり、世界共通の理念は理想ではあったかもしれませんが、実際には「世界共通の理念」とはなり得ませんでした。

 

豊かで平和な未来を信じた人たちも、今、資本主義など社会のありかたに疑問を投げかけています。

つまり「大きな物語」の時代を生きた人たちも「小さな時代」を生きる人たちも、共通の理念などなかったし、確実な未来など知らなかったのです。

ですから、「小さな時代」を生きる人たちも必要以上に不安になる必要はない。
昔も今も、世界共通の指針など存在しなかったし、未来など誰にも解らない。

 

ただ「大きな物語」の時代の人々はそれが解っている気になっていたというだけです。

 

「勝つための教養」を学べ!

世の中のありのままを受け入れようとするなら、私は教養(Liberal Arts)を学ばれることをおすすめします。

しかし、私の言う教養(Liberal Arts)は日本的な専門知識の準備や教養ではありません。
「勝つための教養」です。

 

今、海外の企業やエグゼクティブはアートスクールに学びに行っています。

マサチューセッツ工科大学やハバード大学でもアートスクールの手法を授業に取り入れているのです。

今、アートやデザインは今までの科学技術とおなじように、大きな変革を生み出すと考えらえています。

哲学おいては、ヨーロッパの学問体系では伝統的に基本の学問と考えられています。まさに、学問の基礎として、フランスでは必須科目として子供たちは小さいうちから学ぶのです。

 

西洋では教養(Liberal Arts)は勝つために無くてはならない土壌ととらえらえているのです。

ひるがえって、日本の状況をみると、大学から教養課程を無くそう!などと国のトップの人達が言うくらいですから、全く感覚が違います。

勝つために無くてはならない土壌があるから、いろんな発想でイノベーションが起こせます。

目先の役立つこと、得になることばかりやっていたら、時代の後ろを息切れしながら、あっちこっちへとついていく道しかありません。

目標や理想がなくて何が悪い?

今は「小さな物語」の時代だといいましたが、もっと俯瞰してみれば、「小さな物語」が沢山混在する時代だといます。そして、その小さな物語をゆるく先導する人々がいます。

 

それは、「小さな物語」を生きる人ではなく、いろんな「小さな物語」を自由自在に行き来し、漂いながら「小さな物語」をゆるくつなぎとめていく人です。強引に人々を導くことはしませんが、流れをおこし「小さな物語」に住まう人々を知らぬ間に導く人たちです。

 

そういう人たちは、「小さな物語」に束縛されませんし、依存してもいません。

つまり、理想や目標など重要視しないのです。

ですから「自分には人生の理想や目標がない」などと悩む必要はないのです。
そういう物がなくてもいい時代なんですから。

 

人間は理想や目標が無くても生きていけます。

そんな生き方はダメ人間の生き方でしょうか?

私はそうは思いません、一生をかける理想や目標が無くても毎日を精一杯、自分の予想や考えを信じて生きることはできます。

「大きな物語」の時代の影響から抜け切れていないほど、理想や目標が大好きです。

 

そんなもの、あろうとなかろうと、今やれることを精一杯やることに、違いはないのです。
もうそれほど必要ではない理想や目標探しで時間を使う方がはるかに無駄です。

 

実はリベラルアーツが実務の本質を教えてくれる

一見役に立たないものが長い目でみれば、非常に重要になり、実務や社会の土壌として活用されていきます。

例えば人間を幸せにする経済とは?を考えるとき、人間とはどういう物かを知らないで考えることは出来ません。

 

経済学の中だけで考える人間など、人間のほんの一部分だけです。

数値ではでてこない人間の有り様、アート活動、人間関係、文化、歴史などすべてを総合的に見なくてはいけないのです。

つまり、リベラルアーツが重要になってくるのです。

そうしなければ、「小さな物語」を生きる人々の本質が解るはずがないからです。

しかし、この本質は個別の好みを調査し情報をとれば分かるものではありません。

情報や調査というものは、いつも過去の事柄であり、未来予想ではないのです。そんな調査をしてもそれが有効な時間はますます短くなることでしょう。

 

そうではなくて、もっと本質的な人間のありかた、「小さな物語」を生きる人々に共通するあり方を抽出し、それにあったビジネス戦略が必要になると考えます。

 

海外のビジネスマンがアートスクールに行く理由もそのためです。ビジネスや社会で勝つために学んでいるのです。

 

アーティストや哲学者の生き様が今必要となる

アートや哲学を学んでいると、その思考法や理論も素晴らしいと思いますが、自分の生き方として、アーティストや哲学者の生き方は非常に参考になります。

アーティストでも哲学者でも、死後評価が高まる人が多いです。

つまり同時代の人達にとってみれば、将来評価されるアーティストや哲学者も実用的でないことばかりしている、役立たずの変人や反抗者なわけなのです。

当事者も世間から理解されず非常に苦しみます。自分がいつ世間から認められるかも分かりません。

しかし、信念を曲げずに、全てを犠牲にしてやるべきことを何十年もやり続けるのです。

 

私も弱い所が沢山あるので、つい目先の安楽に負けてしまいそうになります。
なにもこんな苦労しなくても、もっと簡単な方法があるだろうにと思ってしまうこともあります。

しかし、アートや哲学を学び、彼らの生き様を知ることで、励まされる気持ともっと頑張らないという気持ちになれます。

「大きな物語」の時代が終わり、頼れる確かなものもないですが、そういうものだから仕方ないとそれをうけいれて、自分が今やれること、やる方が良いと考えることに集中する大切さがわかります。

「小さな時代」を生きる人たちに必要なことは、不確かなものに人生をかける勇気、アーティストや哲学者のような生き方だと私は考えます。

 

子供でも分かるような分かりやすい「役立つ」ばかりに目を向けないで、分かりづらいことに向き合う大切さをアートや哲学は教えてくれます。

 

あなたはまだ「大きな物語」を信じていますか?
しかし、今の「小さな物語」の世界の生き方はまったく違うのです。

 

生き方を変えようとするとき、きっとアートや哲学があなたをささえてくれます。



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