一般的にご飯を食べ、仕事をし、趣味を楽しむといった日常に美学や哲学は関係のない話だと思われています。
しかし、美学や哲学は私たちの背後に存在し、私たちの認識に影響を与えています。
例えば掃除。
「掃除と美学」といわれると、「きれいに掃除をする方法かな?」と思われるでしょう。
そうではなく、掃除というものを全く別の見方でとらえなおしてみようという試みです。
掃除に関して言えば、断捨離、整理整頓すれば人生がうまくいく、アイデアがわいてくるなどというコンテンツを売っている人が多くいます。
しかし、よく考えてみれば「整理整頓」と「人生」は関連性はありません。
机の上を綺麗にしたら、素敵な恋人ができてお金も手に入り、思い通りの人生が送れるようになるのか?
と言われれば関連性が薄いように思うのに、
整理整頓をし、余計なものを捨てれば人生が良くなる
言われれば、なんとなく「そうかもしれない。」と思ってしまうのはなぜなのでしょうか?
それは私たち日本人には「掃除」に日本人独特の美学を投影してきた歴史、文化があるからです。
神社仏閣はどこもチリ一つないほど掃除が行き届いています。
日本では神様のいらっしゃるところは綺麗にする、清める文化があります。
神社だけでなく、トイレにも神様がいるので綺麗にすることが必要だとされます。
日本の神道では八百万の神々がいる、つまり日常のあちこちに神様がいるわけです。
トイレにも、台所にも、動物にも、岩などの無機物の中にも、神様がいるといわれています。
ということは、すべての場所を掃除し、清める必要があるのです。
禅宗では掃除を大切な修行の一つととらえ、多くの時間を費やします。
小学校や中学校では自分たちで教室を掃除し、小さいころから自ら掃除することが良いことであるという教育を受けます。
私たち日本人にとって、掃除とはただの整理整頓ではなく、美意識、自己研鑽の一つとしての文化を持っています。
だから掃除を清掃ビジネスとして他人にしてもらっては意味がない事柄であるかのようにあつかわれます。
労働であれば他人でも替えが聞きますが、美意識、自己研鑽は自分が行わなければ意味がありません。
海外では掃除というのは、社会的地位が低い人が行う単純労働とされています。
ですから、その価値はほとんどないとされ、代わりに誰かにやってもらうことのほうが重要で価値があるとされます。
ですから、日本人がサッカー場でゴミ拾いをみずから進んで行うことに世界の人々は驚きますし、
小学生が自ら教室やトイレを掃除することに驚くのです。
掃除とはなにか?
という定義が日本と他国とでは大きく違うのは、日本の歴史、文化が私たちの考え方を形成してきたからです。
日本人は他国では「出来ればやりたくない単純労働」に価値、つまり美学を見出している文化なのです。
日本には日本人独特の美学があります。
それは日本美術や日本文化をみていると顕著に表れますので、それらを発信していこう!という動きはたくさん行われています。
しかし、私はまず日本人自身が無意識に持っている美学をきちんと他国の人に分るように言語化し全体を系統立てて提示することが重要ではないかと考えます。
日本人同士でなあなあで分かっているだけでは、本当の良さは理解されないからです。
そして、現代においての知のスタンダードは西洋の学問構造です。
東洋思想や仏教思想で語っても理解されません。
相手に分ってもらうためには相手にわかる思考方法、価値観でまずは伝える必要があります。
岡倉天心は茶道について「茶の本」という本を英語で出版し、茶道をとおして日本人の思想、美学を伝えました。
紅茶をティータイムに飲む習慣と茶道の共通点を突破口として、
同じお茶を飲むという日常の行為を日本の美学は「道」という自己を高める修行にまで高めたことを書いています。
天心の素晴らしい点は、日本文化とは何か?を語るときに、自身がもつ豊富な西洋の歴史、文化、学問の知見を根拠のベースにしながら、相対的に日本文化について語ることによって、日本文化の特異性を分かりやすく伝えたことにあります。
日本文化とは何か?日本の美学とは何か?
を考えるとき、そのものだけを見ていたのでは人はその特徴を正確に把握できません。
比べるものがあるからこそ、その差異が際立つのです。
私たちは個人的な経験や環境以前に、
無意識レベルで日本の文化、美学に価値観をコントロールされています。
その正体を明確にするために、世界の知のスタンダードといえる「哲学」を学び、それをもって日本の思想や美学を相対化することで明確にする、
そうすることで、自分の固定概念を壊して、新しいクリエイティブな発想が生まれてくきます。