コーチング業界では「コーチングとティーチング」の違いについてよく語られます。
しかし、その説明を聞いても、20年間、のべ7千人以上に「教える」ということをしてきた私からすれば、的外れです。
目次
コーチングとティーチングの違いを深く見てみると
コーチング業界でよく言われる両者の違いとは何でしょう?
まず、ティーチングは教える側から受け手へ一方通行に情報を伝えていくため、一度に大勢に教えることは出来るが、個別に対応したアプローチが取れない。教える側の知識や経験によってティーチングの質が変わってしまう。
一方、コーチングは個別に対応し、互いに情報を享受しながら目標を達成する。教える側の知識や経験より受け手の意志が重要。知識の習得が目的ではなく、その方法を学んでいき、答えは受け手が出す。
と上記のような説明がなされることが多いです。
こうしてみると、ティーチングとコーチングは違うように見えますし、コーチングの特徴が際立ってきます。
ネットでもこのような記事が沢山あります。ティーチング対コーチングを二項対立の存在であるかのように見せ、
ご丁寧にマトリックス(4分割された図)などを掲載して分かりやすく見せていますが、みんなよく考えて掲載しているわけではないですね。
自分で本当に熟考したのか?私にはコーチング業界の言い分をそのまま書き写しているだけの様に見えます。
では、何が変なのでしょう?
論理的に間違えている
まず、この二項対立の立て方がおかしいですね。
「コーチングをする」の反対項は「コーチングをしない」です。
「コーチングをしない」はティーチングなのでしょうか?
これは違いますね。他にもたくさんあります。
教授する、伝承する、仕込む、指南、指導など、コーチング以外の物は沢山あります。
例をあげると、「食べる」の対立項は「食べない」であり「飲む」じゃないのです。
どうして、ティーチングを取り上げているか?
コーチングに都合がいいからです。
ティーチングなんて大して特別な言葉ではない
よく考えてください、ティーチングは英語のteachingをそのまま使っているのです。しかし、英語本来のteachingの意味ではなく、意図的に狭い解釈の言葉にしているのです。
teachingは「教える」という意味です。
同じ意味合いの言葉は、日本にもたくさんあります。
先ほど例に挙げた「教授する、伝承する、仕込む、指南、指導」などもそうです。
こういう外来語を使えば、何か新しいことをしていると思ってしまうのは残念です。
教えるなんてことは、日本でも西洋の教えるというシステムとは違うやり方で、西洋のメソッド以上の質で沢山あります。
ここまできて、もう一度、「教える」ということはどういうことか考えてみましょう。
それはただ一方的に教えることだけを意味するのでしょうか?
そんなことを言う人は本当に「教える」ということの意味を理解していないし、それに向い合ってこなかったのか、
本当に「教わる」ということの経験がないのかもしれません。
「教える」にもレベルがある
先生や講師が知識や技術をただ一方的に伝えているだけなら、その先生や講師は三流です。
はっきり言ってそれレベルは最低限のレベルです。
そんなことなら、本をただ棒読みしてれば誰でもできます。
それが「教える」ということなのでしょうか?
その人の人生にかかわっていくという気持ちで教えているなら、ただ一方的に教えるだけなどということはあり得ません。
それは1対多数であろうとです。
私はダンスや他にも大勢に教えるときは、一人に教えてる風に見せながら、その内容がすべての人にあたはまるように必ず話します。
そして、個々人の反応を注意深く見ながら、誰かが質問したら、その一人に答えていると見せかけながら、参加者全員の気づきになるように話します。
それくらいのことは、教えるプロなら普通にしていることです。
しかし、それもまだ二流の教え方だと私は思っています。
一流の教え方は「教えない」こと
では、どういうのが一流の教え方なのでしょう?
私が素晴らしいと思った経験をお伝えしたいと思います。
私が小学校高学年の時、図画工作の時間に、消防自動車の写生をすることになりました。私は絵を描くのが得意だったので意気揚々と楽しく描いてました。
すると、年配の図工の先生が私に「匂いを描きなさい」と言ったのです。
匂いを描く?????
私は唖然としました。今まで匂いを描こうなんて思ったことなんかなかったからです。だって、目に見えないのにどうやって描けばいいのでしょう?
それ以外に先生は何も言いません。私は置いてけぼりです。
私は物凄く衝撃を受けました。そして、自分なりにどうやったら描けるのだろう?と考えました。
そして、目に見えなくても描こうとしていいんだ!!!人が見たときにガソリンの匂いや、車の匂いなのか、と思ってくれるような色にしよう!」と思い立ち絵を完成させました。
私の絵を見て先生は何も言いませんでした。
しかし、私にとっては大きな学びでした。その一言で絵の描き方も絵の見方も随分変わりましたから。
私が人に教えるときいつもこの先生のことを思い出します。
そして、これこそ教える手本だと考えてきました。正直、私はまだそこまでのレベルにはいきつけていません。
その後、能楽師を目指し人間国宝の師匠について6年間修業しました。
基本的に師匠は私が演奏したり、謡をするのを聞いて、一言二言話すだけです。
私がどう感じてるとか、どうしたいとか、一切聞きません。
その時もあの図工の先生と同じだなと思いました。
しかし、師匠が私のことを見守ってくれていることをひしひしと感じましたし、私も師匠を尊敬していました。
私が受けたこのような「教える」という行為を軽く「ティーチング」などと言いたくないです。
本当に「教える」「人を育てる」って、コーチングが言うところの「ティーチング」とは別ものです。
教えるとは全身全霊の祈りのようなもの
教えるという行為の中には、本当に様々な物が含まれます。
その中にはコーチング的な要素もティーチング的な要素も、指導、伝承、高い思考力、高い認知力、観察力、信頼、コミュニケーション、信念などありとあらゆるものがあります。
それらを状況に合わせて臨機応変に同時並行に使いこなさなくてはいけません。
相手に質問するばかりが人を育てることではないのです。
時には沈黙し、相手のなかに育つものを信じて見守ることも重要なのです。
このような抽象度の高い「教える」という行為こそ本物だと私は考えます。
こういう教え方はケンブリッジの少人数の授業でも行われていますし、日本の伝統芸能や職人の技術継承、禅宗などにも見られます。
人に教える、指導するってほんとうに大変です。
自分の身を削ってもほとんど報われないものだと思います。しかし、相手の可能性を信じて祈るように全身全霊で伝えていくものです。
本当の「教える」という行為に目を向けないで、コーチングの対立項としてティーチングなどという言葉を使うのは、本気で教えることに向き合っているコーチングの人たちに対しても失礼だと私は思います。