コーチング、カウンセリング、自己啓発の場面でよく言われる「自分の内面を見つめましょう」というフレーズですが、こういうことをしていると、かえって自分のことを正確に理解することができなくなります。
なぜ、コーチングではそれを勧めるのか?
では、なぜコーチング、自己啓発、カウンセリングなど非常に多くの場面で「自分の内面を見つめましょう」ことが言われるのでしょうか?
客観的に自分自身を見るため
人は本能的に快楽を求め、痛みを避けようとします。
そのため、自分の感情や考え方に合致している=快楽を得られることを求め、多くの場合それが良いことだと判断しがちです。
一方、不快な事柄はどれほど理にかなっていたとしても、それを自分の快楽を阻むもの=痛みとして認識し、悪いことだと判断しがちです。
そのような自分の感情で物ごとを判断してしまうと、他人や社会とはなかなか同意を得らえることはありません。
そこで自分の感情で判断するのではなく、客観的に自分を見ることで冷静に自分を見て、偏見や思い込みを排除して判断しようとする目的があります。
自分を変えるための土台作りの意図
客観的に自分を見つめることによって、コーチやカウンセラーは、クライアントが自分を変えようとすること思うようにしたいわけです。
コーチングやカウンセリング、自己啓発は自己変革を求めるものです。
自分は全く悪くない、落ち度がないと思い、すべて他人や社会のせいにしていては、状況は何も変わらないと考えるからです。
「他人を変えることは出来ないが、自分を変えることは出来得る」
というものです。
自己変革がコーチングやカウンセリング、自己啓発において非常に重要視されているのです。
コーチが気づかない根本の理由
前の章であげた理由は普通のコーチやカウンセラーなら理解していることです。
私は彼らが気づいていないけれど、もっと根本的な理由があると考えます。
それは「‟自分”という物がこの世にはある」という前提を信じ切っているから。
「私は考えたり、感じたりして、肉体もここにあるのだから、自分というものがあるのは当たり前だ!」と思われる方もあると思いますが、
現代哲学的な観点からいうと自分(自我)という物は言葉上では確固としてありますが、
実体はあるか、ないか不確かなものです。
自分という概念と肉体とは、同じではありません。
肉体があっても、それを自分であると実感できない例はいくらでもあります。
不幸な事故で意識はあっても感覚を失い、自分の肉体を自分のものだと実感できない、体が不自由でなくても自分と外界の区別があいまいになる症例などです。
そもそも、自分というものを認識する「意識」という物はどういう物であるかが、現代の科学でははっきりとわかってはいないのです。
しかし、一般的な感覚だと、「自分という物がある!」と思ってみんな生きているわけです。
私が感じ、私が考え、私が判断しているのだから、私という物=自分(自我)はあると素朴に信じているだけなのです。
世の中の人が信じてることが、本当の真実とはかぎりません。
よく自分で考えてみることが重要です。
「我思う意故に、我あり」と言ったのは哲学者デカルト(1596年- 1650年)ですが、400年以上も前の哲学者ですので、彼の功績は素晴らしくはありますが、現代哲学の立場から言うと、そういう考え方はもう古いわけです。
しかし、「人間とは何か?自分とは何か?」を探求することで、今の哲学やアート心理学が生まれる基礎を作り上げたわけですし、人間の認識の仕方をきちんと言語化し、定義づけしたことは非常に重要なことです。
このように、自分=自我というものはどういう物なのか?本当は誰も良くは分っていないのです。
しかし、みんなが普通に「自分」という言葉を使い、よく知っているかのように語っているだけなのです。
それはコーチングやカウンセリング理論の基礎となっている心理学の限界とも言えます。
「自分」という物があるという前提が無くなれば、「自分の内面を見つめましょう」という考え方自体が意味のない物となります。
自分がという存在が無くなれば、心の存在も危ういものです。
メタファーのトリック
「自分の内面を見つめましょう」というフレーズを聞くとき、人は箱のような自分をイメージし、その箱の中にある(と思われる)自分の感情、自分の考え方、自分の本心などを覗き込もうとします。
しかし、そのような行為は意味がありません。
それは比喩・メタファーでしかないからです。
メタファーと現実を混同してはいけません。
「人生はバラ色だ!」というのもメタファー。人生は物ではないし、眼に見えませんので色なんか見えません。
同じように、私たちは箱のように、ぱかっと明けて自分の内面中身を見ることは実際には出来ないのです。実際には出来ないこと、空想の中でしかできないことを、実際にしようとするから矛盾が生まれるのです。
「本当の自分とはなんだろう?」「自分とはどんな存在なのだろう?」と空想のなかで箱のふたを開けていくら覗き込んでも、そこには実際の物は何もありません。
自分の内面より外
しかし、「自分とは一体何だろう?」という疑問は遠い昔から人類にはありました。
それを知りたいという欲求は、大人になれば誰でも一度は考えたことがあるのではないでしょうか?
しかし、残念なことに、「自分とは何か?」と自分の内面ばかりに目を向けていては、「空想で出来た自分」を発見することはあっても、本来の姿を見つけることは出来ません。
では、どうすればいいか?
私は現代哲学の考え方を支持しています。
それは
「自分以外の外部に徹底的に冷静に目を向ける」ということです。
自分というものがあいまいではっきりわからないのですから、客観的事実である外部からその姿を考えるしかないのです。
よくわからない自分というものが、よくわからない自分の内面をいくら見つめても、余計に分からなくなるだけです。
それならば、外部にある現実、事実から自分の本質を探る方が確実というわけです。
しかし、これは言うのは簡単ですが、実際には非常に難しい。
私も現代哲学と現代アートを基礎にしたメタ・アーチングのプログラムでクライアント様に提案し、レクチャーしていますが、ほとんどの方は頭では
「自分より外部に目を向けます!」と言いながら、
自分の存在からは逃れることが出来ていません。
「自分はこう感じた」「自分はこう思う」「自分はこうしたい」という自分目線から逃れることが出来ないのです。
しかし、これをしている限り「空想上の自分」を本当の自分だと信じて生きるしかないのです。やはり、抽象思考の思考訓練が必要なのです。
中には「空想上の自分」を世間にごり押しする人もいます。
甘やかされた環境にいる人なら周りから「仕方がない人ね~。」と仕方なしに受け入れてもらえるかもしれませんが、普通、世間はそんなに甘く無い。ビジネスの場面では特にそうです。
なんでも自分の思い通りに、他人に自分のわがままを押し付けて生きことは出来ません。
「他人を変えることは出来ないが、自分を変えることは出来得る」
その為には、自分の内面をのぞき込むのではなく、
変えることが出来ない他人や社会から自分を見つめることが重要なのです。
その先には「どのうよう自分を変えていくか」という時に外せない重要な事項がありますが、それはネットで書くには複雑なので、ここでは控えておきます。