コーチングの「承認」はどうして、胡散臭いのか?

コーチングの基本的な手法として「承認」というものがあります。

 

これはクライアント(相談者)が心を開いて話しやすくするためと、クライアントが自分に自信をもって行動がしやすくするための方法の一つです。

 

私はコーチングの「承認」という手法では人を本当の意味での成長に結びつけることは出来ないと考えています。

 

 

コーチングで「承認」が必要とされている理由

こちらの記事(「傾聴の無意味さ。コーチングにない本当の聴き方とは」)にも書きましたが、

現在のコーチングの基本的メソッドは現在のカウンセリングの在り方の基礎を作ったアメリカの臨床心理学者カール・ロジャースが提唱した「来談者中心療法」を基礎にしています。

 

もともと、心に病いを抱えていたり、社会生活を営むのが困難な人たちを助けるために考案されたものです。そのため、非常に「優しい」

 

例えれば、ケガをしたり体力が無くなって、安静にしなくてはいけないケガ人や病人のために考案された方法なのです。

 

コーチングは健康な人を対象にし、より自分を成長させたい人のためにセッションを行いますと明記していながら、

ケガ人や病人向けのメソッドで行っていることに私は疑問を覚えます。

 

 

思いやりが大切だ!という裏の理由は?

現実の世界は資本主義の弱肉強食の世界です。

それだけだと人々が安心して暮らせないから救済処置として福祉や法律などの社会制度があったりします。

 

私は弱肉強食の世界が素晴らしいとは思ってはいません。

利害関係とは関係なく人と付き合ったり助け合ったりすることはとても価値のあることだと信じています。

 

しかし、現在は弱肉強食の世界であることからは逃れることは残念ながら出来ません。

 

自然災害が起こっても、体力が無い方や体の不自由な方に大きな負担がかかることは事実です。

どんなに誠実に長年商売をしていても、ブローバル企業の資本力の前に、廃業を余儀なくされる人もいます。

 

助け合いが大切だ!思いやりが大切だ!といわれるのは、裏返せば世界は冷酷な弱肉強食の世界だから。

それだけだと生きていくのはつらいから、優しい心をもって人と接しましょうと言うのです。

 

もし、弱肉強食の世界でなければ、これほど大々的に助け合い!絆!思いやり!とみんなで声高に言うでしょうか?

 

この世界が助け合いと思いやりに満ち満ちていて、弱肉強食なんてことは無い世界ならそれをあえて言う必要もないはずです。

 

つまり、思いやりとか絆とかをやたら強調する人は、弱肉強食の世界に非常に脅威を感じているか、別の勘違いをしているかです。

 

願望と事実を混同している自称「優しい人」

別の勘違いとは何でしょう?

私はコーチングやカウンセリングをしている人たちにこういう人が多いと実感しています。

 

それは、「世界はすべて、優しさで上手くいく」いう勘違いです。

 

とても狭い、個人的な関係性の中でなら上手く行くことは多いです。

 

カウンセリングや家族やパートナーシップ、気の合う仲間内など、親密で、公共性がなく、いたわりが必要な人たちですね。

 

しかし、会社やビジネス、職業人としての人間関係などは、優しさだけで上手くいくほど、安易な物ではありません。

 

個人的な関係性の外に出れば、弱肉強食の非情な世界がほとんどです。

 

そこまでいかなくても、お互いに責任をもって、切磋琢磨し、時には批判しながら成長していこうとするのが大人のあり方のはずです。

 

個人的な優しく承認される枠から出で、自分の力を頼りに成長していかなくては、世の中ではやって行けません。

 

優しく承認されることを必要としない強さをつけること

 

それが、本当の成長に必要なことだと私は考えています。

 

承認は人をバカにしている

私はさきほど‟カウンセリングや家族やパートナーシップ、気の合う仲間内など、親密で、公共性がなく、いたわりが必要な人たち”には優しさで対応できると書きましたが、

本当は少し違います。

 

実はこういう人たちにこそ「優しさ・承認」の意味をよく考えて使わなくてはいけません。

 

相手に「そうね、そうね。」と同調し承認することが本当の優しさなのか?

 

私ならそういうことをされたら、バカにされてると感じ不快になります。

 

承認している本人にはそういう意識はないのでしょうが、承認いう行為は「上から目線」なんです。

 

相手より立場が上にいる人にしかを「承認する」ことはできません。「承認する」とは上から下に降りてきてお墨付きを与えることです。

 

大人が子供を承認することは出来ますが、子供が大人を承認するという行為はできません。

 

きっと臨床心理学者カール・ロジャースもそこまで解っていなかっと思います。

 

なぜなら、彼も心理学者で治療家という立場の外へは出ることはできなかったからだと思います。

 

心理学者で治療家という立場自体が、社会的に上下関係を作り出していているのですが、完全にはそれを払しょくできなかった。

 

クライアントと対等に接しなければならない!と主張したということは、普通は構造的には治療家はクライアントと対等に接してはいなかったという証拠です。

 

承認という言葉は一見優しく、平等な風に思いますが、実は隠れた上下関係を前提にして成り立っているのです。

 

そういうことをちゃんと理解して、意識してコーチングやカウンセリングをすればよいのですが、残念ながらそこまで理解してセッションをしている人は見たことがありません。

 

構造的に上下関係をともなう「承認」という行為に無自覚に当然のように使っているから、病気でも弱ってもいない普通の人からすれば、なんだか胡散臭い気がするのです。

 

「どうして、この人は妙に優しく、なんでも受け止めますよ~と自分のことを子供扱いするのだろう」と。

 

本当に対等な関係性を知らない人が世の中には多いです。

 

偉そうに人に指図する人も、

なんでも承認して優しくする人も、

相手を対等の一人前の人間だと認めていない点で結局、同じなのです。

 

そういったところに気づけない無神経さが、コーチングは胡散臭い、うっとうしいと言われるゆえんなんです。

 

人を導く人の責任

本当に対等な関係性とはどういったものなのでしょう?

 

それは誠意をもって、世の中のありのままを出来るだけ率直に話すことだと私は信じています。

 

私は時にはクライアントに不都合な厳しいことを言います。

 

しかし、それはクライアントを責めたり、励ましたりということで話しているのではなく、

世の中ってこうなんですよ、あなたの好き勝手に出来ないこともあるんですよと語っているだけなのです。

 

その時は受け止められないかったり、自分への攻撃だと勘違いする人もいます。時には恨まれたり、嫌われたりします。

 

だからといって、私はクライアントを子供扱いして、承認し同調しておけばいいとは思えません。

 

それはクライアントが自分と同じ強さを持てる対等な人間だと信じたいからです。

 

ましてや、コーチがクライアントからの承認を求めているようではいけません。

 

これはコーチング、カウンセリング、講師、インストラクターなど、人を導く人が背負うべき最低限の責任と重荷なのだと、信じて私は仕事をしています。

 

人に教えることを仕事にしたい人は沢山いますが、あなたはどう思いますか?

 

○○資格、○○インストラクターというお墨付きをもらうことは簡単ですが、教えるということは楽しいだけの世界ではないことは確かです。



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