一般的に「分かりやすい」ことはとても大切なことだと言われています。
世の中「分かりやすいことは良い!親切!価値がある!」と絶賛されますが、それは嘘です。
この辺りのことについて書いていきます。
それは褒め言葉なのか?
よくその体験談の感想を見たり、聞いたりすると
「すごく分かりやすかったです!」という感想は高評価としてよく使われています。
一方、人が不満を言う時には逆のことがよく言われます。
「よくわからない。」「わかりづらい。」「意味が分からない。」などなど。
確かに、わかりやすさが重要な物は世の中には多いです。
取扱説明書、地図、手順表、注意書きなどは、わかりやすいことは非常に重要です。
大人から子供まで、同じように理解できないと、危険をともなうこともあり、それを誰にでもわかるように書き記すことが求められます。
しかし、世の中にあるものは全てわかりやすければ、良いのでしょうか?
生き方、ビジネス、アート、哲学、政治、未来など、世の中にはそんなに単純に説明できないことに満ちあふれています。
それで、私たちはそういったよくわからない、複雑なことをわかりやすく教えてもらうと、「わからないこと→分かった!」となり、感謝したり、感動します。
「分かった!」と思うことは別の見方をすると、単純化し一つの答えに固定化したということです。
固定化するということは、「ああかな?こうかな?」と他の見方を捨てたということです。
つまり「分かりやすさを求めること」とは「思考の単純化・固定化」を求めるということなんです。
右脳左脳のウソ
そうするとどういうことが起こるでしょう?
「○○するには××すればいいんだ!」「○○は××なのだ!」という固定概念が出来上がり、しばらくすると、その根拠や理由はよくわからないけれど「○○は××なのだ!」という常識となっていきます。
例をあげると、「右脳左脳」の話です。
今でも「右脳は女性脳、左脳は男性脳」、「右脳は感性や創造性をつかさどり、左脳は論理的思考をつかさどっている」などとまことしやかに語る講師やコーチやカウンセラーがいますが、あれは嘘です。
八田武志著『「左脳・右脳神話」の誤解を解く』という本書かれていることを見てみますと、
左脳右脳の誤解は1980年代にマスコミがテレビなどで取り上げたのがはじまりだそうです。
ブレークスリー著「右脳革命―創造力活性化の決め手」という本が人気ジャーナリスト大前健一氏の翻訳で出版され大ベストセラーとなりました。
それで、メディアに取り上げられ、「右脳を鍛えると創造性が高まる!」と右脳左脳という二項対立的な観点から脳が語られました。
しかし、実際は、本のどこにも「右脳を鍛えると創造性が高まる」などという記述はないのです。
わかりやすさ、単純化のなれの果て
出版社は本を売るために、わかりやすく、インパクトがある表現をします。
しかし、それは科学的事実とはずれているわけです。
マスコミは一般視聴者にウケるためには、単純明快、わかりやすく、インパクトを求めて、もっと大げさに情報発信します。
そうして、世の中全体に「右脳左脳神話」が浸透していきました。
それから、脳の研究は飛躍的にすすみ、脳は右脳、左脳で別々の機能をはたしているのではなくて、脳全体で連携しながらすべての活動をしていることが解ってきました。
しかし、マスコミは以前にブームになったことは間違いでしたとは決して訂正しません。そのままスルーするのみなのです。
当初から右脳左脳の機能差にかかわってこられた著者の八田武志先生は、こういった科学の常識からかけはなれた世間やマスコミの在り方を危惧され、科学錯誤情報を世に知らしめるため本を2013年に出版されています。
左脳右脳情報を聞きかじった講師などがそれが事実かのように本を書いたり、間違いを知りながら一般受けをねらって右脳左脳の本を出してる専門家もいます。
ここで問題なのは八田武志先生の本から引用すると
その調査が示すのは、学生はメディアに登場し熟知度が高い科学情報はそれを間違いないものと認識しているという事実である。メディアへの依存度がきわめて高い傾向がうかがえた。
たとえば、三十年前の話題である、「右脳を鍛えると創造性が育つ」「人間には左脳タイプと右脳タイプがある」「胎児にモーツアルト音楽を聞かせると知能が高くなる」「速読訓練は脳を鍛える」などの科学情報を今の大学生は60~90%の比率で正しいものと評定している
分かりやすいものは世の中に広まりやすいです。
しかし、そういった単純化した物の見方はひどくなると差別にもつながっていきます。
女性は感受性豊かで、だけど論理的思考が苦手とか。
個人個人の特性を見分けること難しいことですが、女性はこう!日本人はこう!と単純化しておけば、頭を使わなくても判断できます。
すごく分かりやすいです。でも、それでいいんでしょうか?
人間ってもっと複雑なものですよ。
わかりづらいことの価値
一方現代アートや抽象絵画は一般的には「よくわからない」と言われます。
その言葉にはネガティブは意味が含まれています。
私はそれは違うと考えています。
「わからないから、素晴らしい。理解できないから奥深い。」
それを今の自分のレベルに引きずり降ろして、自分が納得するために
「この作品は○○である。」「この作家は○○な人だ。」「アートとは○○だ。」
と分かりやすい説明にただ納得することは、そのアートの価値をおとしめているのと同じだと思います。
世界は複雑です。全貌は誰も知ることは出来ません。
わからないことの方が当たり前なんです。
それを分かりやすく単純にすることで、分かった気になってその他のことを見落とすことになってしまいます。
そして、分かりやすく単純化されたものは、人の思惑や意図が入り込むということです。
右脳左脳の話なら、本を売りたい、視聴率を上げたいという思惑が、本当のことを少しゆがめて分かりやすく伝えてしまう。
それが何年もたつと常識となって、それに疑問を持つ人もいなくなる。
そう考えると、わかりやすいことは良いことばかりではないと分かります。
そして、わかりやすさばかり求めていると、人の思惑に知らず知らずに洗脳されてしまうことが多いです。
そこから逃れるためには、分かりにくいこと、理解できないこと、難しいことに日々向い合って、自分でよく考え、視点を上げ、視野を広げていくことです。
わかりづらいことに出会えない時代
今の世の中は、「簡単に、わかりやすく、単純に」であふれかえっています。
今の日本で普通に生活していると、解らないことはGoogle検索すれば、なんとなく分かった気にさせてくれる、分かりやすい答えが沢山でてきます。
そうやって、探していけば世の中のことが本当に分かるのでしょうか?
1つ言えるのは、答えをたくさん集めても、その質が低ければ、それは自分の思考力を上げることにはなりません。
質の良い答えは、質の良い質問からしか生まれません。
例えば、コーチングとは何か?コーチングの手法は?などという質問をたくさんして、Googlで検索して答えを集めるのと
コーチングはどういう思想の文脈でつくりだされたのか?コーチングの手法拠り所は何なのか?と質問を設定しそれについて答えを考えるのとでは、出てくる答えの質と抽象度はおのずと変わってきます。
本当は答えを考えるのより、質問を考えることの方が難しいのです。
質問を創り出す力を付けるには
質問を創り出す力を付けるにはどうすればいいのか?
それはアートを活用することが私は一番いいと考えています。
歴史的に哲学とルーツを同じとし、今もアートと哲学は密接な関係にあります。
しかし、哲学と違い、アートは美術館に行けば誰でも見ることができますし、目に見ることが出来ます。
そして、素晴らしいアートはいつも人に問いを与えてくれます。
単純には分らない、困惑の中から出てくる深い問いです。
アートは明確な答えを出すことはありません。
しかし、質の高い問いを作るきっかけを与えてくれます。
ただ、残念なことに美術館に行けば、誰でもそういう経験ができるわけではありません。
美術館にもいろんな思惑がありますから、「誰にでも分かりやすく、親しみやすく」という方向へ鑑賞者にアプローチしてきます。
それでは、本当にビジネスや社会を変えていこうとするレベルの人達には物足らなくなってしまいます。
私はあえてそこは、レベルを落とさずに思考力を高めるメタ・アーチングのコンテンツに活用していこうと考えています。