
以前の記事で哲学的な観点からみた無意識に関する私の意見をのべました。
→アートを使ったコーチングやセラピーの残念な点
そこで、クライアントとセラピストやコーチの関係を【占いにおける占い師とお客】に例えましたが、少し解りずらいと思い詳しく書きます。
芸術療法の読み解きのあいまいさ
芸術療法の手法は「非言語表現の読み解き」です。
そのため、ある表現に対して、これにはこのような意味がありますという、辞典のような言語に変換するための手引書が必ずあります。
それにそって、コーチやセラピストはクライアントの状況を把握していきます。
絵画療法で例をあげると、
<木>
木は内面的な自分です。大きく書かれていれば自信家、普通程度なら協調性のある人、小さい木は心配性な人や萎縮している人が多いです。また丁寧に描かれていれば、繊細な性格の表れということも読み取れます。
というような具合です。実際にはこれをそのまま単純に使って、相手の状況を決めつけてはいけないで判断するようにと言われます。
しかし、それにしても、あいまい過ぎます。
そもそもどうして木が内面の自分の象徴になるのか?
大きくとはどれくらいの大きさなのか?
丁寧ってどいう書き方?
繊細な性格って?
定義が曖昧過ぎて、無限になんとでも解釈できてしまいます。
言葉の意味は固定されていない
こういう点で心理学は科学にはなり切れなかったのでしょう。
科学的実験とは実験装置を決めてその結果を数値として測定し、比較検討するものです。
臨床心理学は実験装置がまず統一されていません。クライアントの言葉や感想などは客観的ではないですし、数字で測れるものではないので科学とは言えなかったでしょう。
まあしかし、数字も世の中の真理ではありませんけど・・・。
では、言葉の構造でこれらの療法の信憑性を見てみます。
哲学的にいうと、言葉には固定の意味はありません。
その時々の文脈によって変化します。
大きさ、繊細、丁寧などの言葉は特に意味合いを勝手に変えることが出来ます。
同じ絵を見ても、なんとでも意味を変えることが出来るものに、因果関係を断定する力はありません。
そもそも、「木=内面的な自分」というのはどういう根拠があってそう決めたのでしょう?
基準となる対応表の根拠があまりにも薄いです。
根拠の薄いものをA=Bと最初に決めつけて、それに目に現象をあてはめて解釈したところで、その解釈は作り話でしかありません。
実際、芸術療法には、その結果だけでなく、包括的に判断することの大切さは書かれています。
つまり、芸術療法の結果だけで判断してはいけないよ、ということです。
コーチやセラピストの自家中毒
私はアートセラピー(芸術療法)が悪いとは思いません。
小さな子供が上手く言葉にできないので、非言語表現で外に何かを表現することができ、外部にメッセージを出せるならそれは意味があることだと思います。
しかし、その結果の判定には非常に注意すべきです。
芸術療法のテキストにもきちんと、芸術療法だけで判断するのではなく、クライアントの全体から判断しましょうと記載されています。
きちんとした訓練を受けた臨床心理士なら、芸術療法の曖昧さも十分理解しているはずです。
何年もかけて得た専門知識と経験と観察眼で、そのクライアントが発するシグナルを芸術療法の結果だけに偏ることなく、包括的に判断できるでしょう。
(芸術療法の曖昧さについての明確に認識していない臨床心理士はダメだと思います)
しかし、民間で数時間で資格をとったアートセラピストや知識を聞きかじったコーチがきちんと芸術療法の曖昧さを理解せずに使用するのは良くないです。
人間を包括的に見るには、ただ絵画療法の手法を使える、手順を間違えないというだけでは不十分だからです。
人間とは?人間の認識や思考はどうなっているのか?を自分の認識の正確さも含めて、世界全体を見ながらクライアントを見る必要があります。
コーチ、カウンセラー、セラピストはクライアントのことばかり見てますが、まず本当に見なくてはいけないのは自分の認識や思考です。それが世界の在り方とズレていれば、あなたがクライアントに下した判断もズレてしまいます。
それを避けるためコーチング、カウンセラー、セラピストは自分の判断力を高めるために、コーチは自分にコーチを付けますし、カウンセラー、セラピストも教育分析という自己分析・自己洞察を深めるためのカウンセリングを受けます。
(こういうこともしていない人も特にカウンセラー、セラピストには多いです)
しかし、私が非常に問題だと考えるのはそれが結局、自分たちの世界観の中で閉じてしまっていることです。
- コーチがコーチをコーチングの理論でコーチする。
- カウンセラーがカウンセラーをカウンセリングの理論でカウンセリングする。
それでは、自分たちの仲間内で、承認しあっているだけで、本当の意味で自分の認識や思考の狭さを気づくことは出来ません。
このサイクルの中では決して、根本のところでコーチングや芸術療法にに疑問を持ち、世界とのあり方とのずれを修正し、よりよいコンテンツにしていくことなど出来るはずはありません。
世の中の人はコーチングやカウンセリングと世界とは全然違う世界観で生きているし、活動しているのです。
コーチングやカウンセリングやセラピーの外部&上位概念から、それぞれの根本理論を検証すべきなのです。
世界の根本的な在り方に目をむけないで、仲間内で「これって、すごいよね!」「成長したよね!」「役立つよね!」と言い合っていても、他人から見れば奇異なだけです。
しかし、そのことにコーチングやセラピストの人達が気づいていないのが今の現状です。
原因でない所に原因を創り出す
もう一つ非常に良くないと私が考えるのは、大人にそういう芸術療法などを行うと、本当は問題は無いのに、問題を作り出してしまうということです。
先に書いたとおり、芸術療法で出される判断基準の方法が、非常にあいまいなので、どのようにでも解釈できてしまいます。
よくある例をあげてみましょう。
セラピスト「幼児期に親から何かされて、悲しかったり、怖かったりしたことはありますか?」
クライアント「いや、特にひどいことをされた思い出はありません。両親は愛情をもって大切に育ててくれたと思います。」
セラピスト「いや、あなたは忘れたふりをしているだけです。よく思い出してください。」
クライアント「そういえば、私が駄々をこねたときに、母から一度お尻を叩かれました。」
セラピスト「(ほら、思い出したでしょ?それがトラウマになってこのような絵を描いてしまったんですよ。)自分が小さく書かれてますね。芸術療法ではこういう絵を描く人は自己肯定感がないということになってるんですよ。」
クライアント「!(そうか!お母さんのせいで私は自分に自信が持てないんだ)」
ざっくり書きましたが、こういう流れになります。
実はこれは実際に私が20年以上の経歴があるアートセラピストからカウンセラーの教育分析を受けたときの流れです。(実際より分かりやすく簡略化しています)
私の例が特別だったのかもしれません。
ただ私の場合は「お母さんのせいで私は自分に自信が持てないんだ」とは思わず、「そんな言い方したら普通の人は信じちゃうだろうな。」と冷めてました。
小さな子供は自立する力もありませんし、家庭=世界という認識です。理解されない経験や、怖い思いを全くしたことがない人なんて、この世にいるわけがありません。
しかし、大人になるにつれて、小さかった時に考えたことや感じたことをもう一度反芻して、「あのころは怖かったけど、それは母の愛情だったんだよな。」などと認識を書き換えていくことが成長ではないでしょうか?
本当に精神の病に苦しんでいる人には必要でしょう。
しかし、ちょっと疲れたとか悩みがあるだけの大人にこういう解釈の押し付けは弊害が多いと思います。
それを心理学の権威やカウンセラーという立場、芸術療法のメソッドは正しいという盲信によって、小さなころの思い出の解釈を心理学の文脈でねじ曲げることがいいことなのでしょうか?
セラピストやカウンセラーも悪気があるわけではありません。
しかし、精神分析の構造やセラピー、カウンセリングの手法が、どうしても過去に原因を求めようとする点で間違いが生じているのです。
実は現代哲学の観点から言えば、原因と結果には何の因果関係もありません。
そう思いこまされている構造があるだけです。
つまり、解釈によっていくらでも原因と結果をねつ造できるのです。
本当はトラウマなんかではないのに、トラウマにしたて上げることはいくらでも可能なのです。
悪気はないのだろうけれど、そのことにより、コーチ、カウンセラー、セラピストはその構造を見ていくと、原因をみずから作り出し、それを自分が解決できました!と言っていることが多いです。
ですから、私は以前の投稿で、例えとして、コーチングやカウンセリングは占いを信じる占い師とお客の関係に似ていると言ったのです。
人を導く人は最低限、自分のやっていることを外部から検証して欲しいです。
もちろんその外部とは、自分が行っていることを上の視点で見ることが出来るものでなくては意味がありません。
今のところ、その抽象度と質を保っているのは現代哲学とアートだと私は考えているので、メタ・アーチングに取り入れているだけです。