一般的なアート鑑賞では作品を見て、感動したとか、心を揺さぶられました、などという感想がほとんどです。そして、そういうふうに見ることがアート鑑賞だと思われています。
しかし、そういう物の見方は、アート鑑賞のほんの上澄みでしかないのです。人間は誰でも感動できるのでしょうか?実は感動にも格差があるのです。
感動を共有することの不思議
感動とは一体何なのでしょう?
何かを体験した時に心に自然に湧き上がってくる強い感情です。喜び、驚き、尊敬、憧れなど様々な感情が絡み合って、それが時には爆発的に、時には長く静かに自分の中に滞在する、そんなものです。
「感動」というものをもし宇宙人に教えるにはどう説明すれば解ってもらえるでしょう?
ちなみに辞書を引いてみますと
ある物事に深い感銘を受けて強く心を動かされること
とあります。
しかし、このような説明では宇宙人は理解できないでしょうね。
「感銘」「心を動かされる」ということはどう説明すればいいのでしょう?
喜び、驚き、尊敬、憧れなどの言葉を使っても、正確には伝わらないでしょう。
しかし、なぜか世界中にいろんな人種や文化があり、言葉は違えども、感動や感情はおおざっぱではありますが共有できるものと考えられています。
アートやスポーツは世界共通言語だと言われるのは、「感動や感情というものはこういうもの」という何か共通認識が人間共通のものとしてあると考えられているからでしょう。
しかし、実際は人間は他人の感情を100%正確に認識することは出来ません。
相手が本当に自分と同じ感動や感情を抱いているという確信はないのに、どうして世界中の人は感動を共有した!などと思い込むことが出来るのでしょうか。
“生”が感動を生み出す
人はなぜ、感動を求めるのか?
感動は様々な感情の塊だといえますから、感情について考えて行きましょう。
感情には大きく分けて2種類あると言われています。
快と不快です。
快の感情は食欲や睡眠欲など生存本能が満たされることから、社会的な承認、達成感などからも得られます。
快を損なうものは不快となります。
人間は基本的に快を求めて、不快を避けて生きていこうとします。
それはさかのぼれば、生と死という生存本能が基盤となっています。
生物は生きようとします。理由はわかりません。
しかし、小さな虫から、動物、植物、人間までなぜか生きようとします。
そういう、なぜかそうなるというのは、本能と言えるものです。
人が生きようとする本能が人間に快を求めさせる。そして快の感情が複雑化し、一時的に高まったものが感動なのです。
人間共通の本能から生まれるものだから、感情や感動は人間共通のものと言えるのでしょう。
世界は感動の格差社会
現代アートや抽象絵画は難しい、分からないという人は感情的には「不快」を感じています。
だから、そういう現代アートは避けようとします。
その一方で、現代アートの面白さにドップリはまり、「快」を感じる私のような人もたくさんいます。
人間は感動や感情は世界共通のものだと言われているのに、現代アートを見て、なぜ受け取る感情が違うのでしょうか?
そこには「感動の格差」があるのです。
世の中の人は感動や感情は世界共通で同じものだと思っていますが、それは違います。
つまり、「快」というパッケージに入っているものが、ある人には本能に近い、体感的な「快」であるのに対し、ある人には論理的・抽象的「快」が入っているのです。
パッケージは同じでも中身が違うのです
体感的な「快」は非常にわかりやすいです。
ハリウッド映画のように、恐竜やお化けが急に画面に出てきたら、びっくりして感情が動かされる。
大きな音や見たことも無い風景が映し出され、まるでそこにいるかのように体感できれば感情が動かされます。
小さな子供からお年寄りまで、人種、文化に関係なく体感的な「快」は感じることができます。
しかし、論理的・抽象的「快」は誰でも感じることが出来るものではありません。
そこには訓練が必要になります。
つまり、目に見えたり体感はできないけれど、思考の世界で感じる「快」です。
深く考え抽象的に物事をとらえる訓練が出来る人だけが、その「快」を受け取っています。
しかし、いくら私がそのようなことを言っても、一度もそういう快楽を味わったことがない人にはわかってもらえません。
一度もワインを飲んだことがない人に、その味を本当に理解してもらうことはできません。
一度そういう論理的・抽象的「快」を知った人たちの間では「ああ、あれね。」「そうそう、あれよ。」と世界的な共通認識があり、それを理解してる人たちが最先端のアートや文化をけん引しているのです。
そこには、目には見えませんがはっきりとした「感動の格差」があります。
私はそれを大衆文化と芸術という風には分ける気はありません。
そのような区別はもはや、前近代的な考え方です。
論理的・抽象的「快」はすべての物の中に隠されているからです。
体感的な「快」を包括する快楽が、論理的・抽象的「快」だと私は考えています。
感情と論理、文系と理系、アートと数学など、人はどうしても物事を対比して考えがちですが、それらは、高い抽象の場では、渾然一体となったもので、分かちがたいものなのです。
快楽主義者は論理をむさぼる
周りの人たちは私のことを理屈っぽい、論理的な人で、感情が乏しいと思っているようですが、
私は自分のことを貪欲な快楽主義者だと思っています。
普通の体感的快楽は単純で少し飽きてしまっただけです。
それで、人から見れば普段はつまらなそうに見えるのかもしれません。
私が好きなのは論理的・抽象的「快」。
そのほうが、スリリングで深みがあり、快楽の質も半端ありません。
体験的快楽は時間が過ぎれば、無くなりますが、論理的・抽象的「快」はいつまでも長く味わうことができます。
どうです、皆さんもそういう快楽を味わいたくないですか?
私は誰でも訓練すればその快楽をある程度は味わえると考えています。
その為には論理的思考と抽象的思考の壁を一度は越えなくてはいけません。
そうしないと、いくら素晴らしいアートを観ても、映画を見ても、音楽を聴いても、それらは体感的な「快」として、あなたの上を通り過ぎていくだけでしょう。
上位の「快楽」を求めて人生を楽しみたい方と一緒にメタ・アーチングの考え方を共有したいと思っています。
それは、論理的思考と高い快楽を結び付け、より深い人間理解となり、多くの人に有意義なアドバイスが出来る人材となると考えています。